川村洋司の幻の魚イトウ考
週刊釣り新聞ほっかいどうコラム「魚眼レンズ」より

1999, 2017/07/27


川村洋司さん イトウ研究の第1人者で北海道立水産孵化場病理環境部の川村洋司さんが1999年1月から2月にかけて、「週刊釣り新聞ほっかいどう」に執筆されたコラム(全5回)を再録しました。

1 釣り人の財産として

 最近電話で「○○川のイトウを保護したいのですが」と言う相談をしばしば受けるようになった。ほとんど全て釣り人からである。イトウの調査を始めて20年近くになるが、かつてこんな相談をされたことはなかった。

 「幻の魚」として貴重な魚という認識はあっても、「釣りキチ三平」の世界のお話しであり、身近な存在では無かったのであろう。それが昨今のフライ・フィッシングの隆盛によって、大物釣りの対象としてのイトウがクローズアップされてきたためかもしれない。

 正直なところ、イトウの保護を理念としてではなく現実の問題として議論できる仲間が増えてきたことは嬉しい限りである。しかし喜んでばかりもいられない。「稚魚を放流したいのだけど、どこかで手に入らないでしょうか。」

 私はイトウの保護を考えるとき2つのことを区別してほしいと思う。釣れる魚を増やしたいだけなのか、それともその川のイトウそのものを保護したいのか。放流してでもイトウを増やしたい、その気持ちを否定するつもりはない。孵化場の職員としてあちこちの河川にサケやサクラマスを放流してきたものとして、今更生態系だの生物多様性だのと言えたがらではないことは百も承知の上である。それでもなお、北海道の釣り人の財産として、イトウはネイティブにこだわってほしい。水産上ほとんど価値が無く、一部の釣り人の対象にしかならなかったからこそ、ネイティブであり続けてきたのだから。


2 川全体を丸ごと保護

 イトウというと大きな川の下流域や湿原をそのすみかと考える人が多いだろうが、それは成長して大きくなった魚のすみかであって、人間の社会が職場や赤提灯だけで成り立っているわけではなく、家庭や学校、幼稚園そして公園など、いろいろな生活の寄り集まりで成り立っているように、イトウの世界もたくさんの生活場所を必要としている。

  何もイトウに限らず、ネイティブなサケ科魚類を増やそうとしたら今は容易ではないが、とりわけイトウはその生涯を通じての河川生活空間の広さ故、もっとも大変であると言ってもいい。

 現在わが国で水産の対象になったり、釣りの対象として人気のあるサケ科魚類は、ほとんど川の上流か海のどちらかに軸足をおいていて、川の中・下流域はせいぜい通路として利用すればすむものが多く、生活の場としての重要性が希薄である。カラフトマスやシロサケはもとより、サクラマスやアメマスでさえ。

 ところがイトウはその長い一生にわたって大きな川の上流から下流までそのほとんど全てを必要としている。だからイトウを保護するためには川全体を丸ごと保護しなければならない。そこにネイティブなイトウを守ることの価値がある。巨大なイトウが泳ぎ回る川は、多くの釣り人にとってもまた心ときめき、充実した1日を過ごせる川であるはずである。


3 広い流域に産卵

 イトウは川幅3mくらいの小川でも産卵すると言ったら驚く人も多いかもしれないが事実である。本流の上流はもとより、流域で遡上可能なあまり落差のない小支流のほとんどに多かれ少なかれ産卵にのぼる。

 いつもは大きな川の本流や下流域で生活しているから、遡上距離は数10kmにもなる。しかも親は特定の河川に集中しないで、広く流域の小河川に分散して産卵する。このように流域全体に卵をばらまくのがイトウの産卵の特徴である。

 おそらくこれは稚魚の生活様式と関連している。稚魚は産卵床から抜け出した直後は付近の浅瀬で見ることが出来るが、1カ月もすると流域一帯に広く分散して、河川の脇の浅くて流れのほとんど無い、草などが覆い被さった下に単独で入り込み、日中はほとんど姿を見ることが出来ない。

 2年目に入って10cm前後に成長しても、ヤマベや岩魚のように淵や流れの中心付近に決して現れることなく、小川ほどの小さな支流に入り込んで、やはり草や木の下に1匹で潜んでいる。だからイトウの稚魚は川を淵や瀬と言った面として利用するのではなく、川岸に沿った線として、もしくはカバーの下と言った点として利用するにすぎない。

 こういう環境は産卵場所付近に集中して存在しないで、流域に広く分散しているから、稚魚も浮上後速やかに分散して好適な場所に早くたどり着く必要があるのだろう。


4 川で異なる稚魚分散

 イトウの稚魚にとって、好適な生息場所にうまくたどり着くことが出来るか否かが、その後の生き残りに重要だとすると、そのような場所が流域にどう分布しているかはイトウの産卵場所の分布や稚魚の分散様式に影響しているはずである。

 稚魚にとっての好適な生息環境の分布状況は河川によってそれぞれ違っているから、産卵場所をどう分散させるか、はたまた稚魚はどう分散したら良いかもそれぞれの河川で異なっていてもおかしくない。

 多くのさけ科魚類が母川回帰性を持っていると考えられているが、イトウでも堰堤などが出来て資源が一度途絶えると、以後間違えて遡上して堰堤の下でうろうろする個体はほとんど無くなってしまうので、程度はさておき一応母川回帰性をを持っていると考えたほうが良い。

 そうすると稚魚の分散様式などもその川独自に一部遺伝的に決定されている可能性がある。だから異なる河川のイトウを放流して、その川のイトウと交雑を起こした場合、浮上稚魚はその川の稚魚の生息環境の分布状況に合った分散が出来ず、良い生息場所にたどり着ける稚魚が減少して、その後の生き残りがうまく行かない可能性も考えられる。前置きが随分長くなったが、私がネイティブに拘る理由は何も感情的理由ばかりではなく、以上のようなことがあるからである。


5 豊かな尻別川復活を

 尻別川でかつてイトウ釣り師として鳴らした人たちが声を掛け合って、オビラメの会というイトウ保護のための組織を結成した。以前はメーター・オーバーのイトウで釣り雑誌を賑わせた尻別川も、河川環境の荒廃によってこのままでは絶滅は時間の問題である。

 かつての豊かな尻別川を釣り人の手で取り戻したい。そんな思いで活動を始めていた会員の一人とひょんなことから知り合いになった私も、絶対にネイティブに拘ることを条件に協力する事になった。幸い会の人達にも尻別川のイトウに私以上のこだわりがあった。この試みが成功すれば釣り人による河川造りのよいモデルケースになるだろう。

 尻別川は今では多くの支流が堰堤と護岸で産卵遡上が不可能になっているし、生息密度が希薄なせいか、それらしい流れにもイトウの産卵する姿は見られない。

 しかし実際に川をあちこち歩いてみると、尻別川はまだまだとても素晴らしいことに気づく。川を理解するためにはまず歩いてみないとダメらしい。寸断されているとはいえ、美しい流れがたくさん残っている。この美しい流れをつなげることが出来たなら、元のようにイトウの溢れる川が取り戻せるかもしれない。

 残された時間は少ないが、まだ可能性は十分残されている。幸いなことにこの秋に1尾のイトウの稚魚が捕獲された。まだ知らないところで確実に再生産しているらしい。今、少しづつ尻別川のイトウの輪郭が見えだした。(了)


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