松浦武四郎「後方羊蹄日誌/知別=シリベツ=」

2001、2022/01/07

編訳・丸山道子、1973年、凍土社より

このページの記事は、故・丸山道子氏のご子息、丸山丕様のご了承を得て、絶版品切れ中の上記書より引用させていただきました。丸山様に深くお礼申し上げます。(なお文中,★印の部分は、現在のところパソコンで表示不可能な漢字です。ご了承下さい。また無断転載を禁じます。)


松浦武四郎「知別=シリベツ=」

松浦武四郎「後方羊蹄日誌/知別=シリベツ=」(以下漢文 安政四年七月―八月)

尻別川は北海道西海岸、磯谷の海岸から約一〇里あまりのところから険しい山峡となり、断崖絶壁の下を流れが渦を巻き、白石葺きを上げて流れ落ちる急流となる。

私はこの五月にこの川の水源地の場所を確かめるために、三日程か丶って川をさか上ってみたみたけれども、どうしても先に進むことが出来ずにしまった。

それで岩内から再度この方面をめざして陸行したが、このときも氷雪をつき、草やいばらを分けての行程で、上流の宗付=ソウツケ=まで行って、融雪のため地面が泥濘になっていて、羊蹄登山は諦めねばならなかった。そのときは羊蹄山の東側から登山する予定であった。またその水源も川が雪どけ水に溢れていて、行くことが出来ず失敗に終わった。

以前は間宮(林蔵)近藤(重蔵)最上(徳内)の三氏もこの地に入り、やはりこの川の水源を窮めようとされたらしいが不成功に終わっている。それ程にこ丶は北海道でも有数の険しい山岳地帯である。

安政丁已(四年)七月二六日、今度は反対側東海岸の虻田=アブタ=から、アイヌ四人を雇って尻別川の西岸、路参=ルサン(留産)=まで行き、こ丶でアイヌ立ちに丸木舟を作らせた。

その舟を二人のアイヌに川の両岸から曳き舟させて川を上り、八月二日、ついにこの川の水源まで行き着くことが出来たのである。その後のことをこ丶に日を追って記述してみよう。

八月二日

今日は尻別川の流れのま丶下流に下る。急流は矢のように疾く、そここ丶の石に流れがせき止められて白い水しぶきを上げている。両岸は陽もさ丶ないほどに繁った深い森林が続いていて、その樹間に時々熊や狼の姿を見かける。鳥は無数にいる様子で、熊鷹(カムイカハチリ)のような形の鳥で、アイヌがテッカと呼んでいる頸とくちばしが紅で、目のまわりの白い、背の黒い鳥や、やませみ(オユユケ、日光でとうからしこま、又は水乞鳥とも云う)さめ鳥(奥羽地方でさっさ丶き、鹿児島ではこむくたい)川からすの類など、こ丶では初めてみる鳥ばかりである。

夜になって、サッテキメンという所に泊まる。こ丶で私は沢山の鱒の産卵するのを見ることが出来た。アイヌたちがこれ等の魚を獲ったが、ほんのちょっとの間に数十匹とれる。手づかみで獲るのと同様の手易さである。

八月三日

早朝に出発、舟でホロイチャンまで、こ丶は両岸切り立った崖で、流れも激しく、舟に乗って行けないので下りて、荷物も全部出し、それぞれが背負い、空舟を流れのま丶に流す。数町下って少し流れの緩かな、川幅の広いところまで来てから荷物を舟に積み、人も乗って下る。その間に鹿の姿を見つけ、アイヌたちが早速毒矢で射とめた。こ丶は以前にも宿ったところで、ソウツケの川岸である。日も傾いて夕方になった頃に、岩内酋長セベンケイの漁小屋に着いた。

昨年の夏、こ丶に泊まったときには番人が住んでいたのだが、今はその番人は亡くなって、少しの間に小屋も荒れてしまっていた。ただ荒れた小屋の壁に墨で書いてあった岡田錠次郎氏の詩が残っていて、その横に私が併べて書いて置いた詩も消えかけているが、どうにか読める。それはこういう詩である。

雪岳氷山銀世界 白雲深處別天開

一★芽★生涯足 疑是夷翁即地仙

(雪の山や氷の山の銀世界、遠く白雲の中をわけて歩いて新しい土地を開こうとしている貴方は、そんな仕事をする一役人で満足しているらしいが、このま丶だとやがて貴方はこのえぞの地で老人となり、えぞの仙人になってしまうかもしれない――の意味であろう)

猿攀蟹歩十余年 霜苦雪辛千島天

健脚自期僧小角 任地人喚做蝦仙

(前の詩に答えて、十余年もの間各地の山々で雪や氷に悩まされながら歩き廻っている私だが、脚については役の子角ほどだと自負している。人が私のことをアイヌの仙人などと云っても私は気にしないだろう――私葉山を歩くことが好きなのだから……という意味であろうか)

八月四日

明け方に出発、川は幾十仞あるかわからないほど深く、どうどうと音を立て、流れている。両岸犬の牙を思わせるような奇山が立っていて険しい峡谷である。合うぬた地はこの場所をニセケシヨマ(ニセコ)と呼んでいる。岩は岸だけでなく、川のあちこちにもあるので危険この上ない。荷物を全部岸に揚げ、空舟にして陸から舟を操作しながら下ること三度ばかり、それからはいよいよ険しく、川の中に刀を立てたような岩があって、空舟を下ろすのさえ難しそうに見えた。こ丶でアイヌたちは木幣=エナウ=さ丶げて山の神に祈ってから通る習慣である。

これから舟をどうするかと思ってアイヌたちのするのを見ていたが、岸の木立の梢の、しなやかな枝の一本に、舟のへさきに結びつけた縄を掛けて、縄の橋を引くと自然に舟が立つ恰好になる。そのま丶流れて今度は縄を緩めてやると舟首が下って水に入り、舟の後ろが上って舟は楽々と岩を乗り越える。こういう方法で彼等は激流の岩を越えながら舟を曳いていくのであった。

そして私たちは日暮まで歩き続け、今度は川の崖の洞穴に野宿。

八月五日

急流を一里ばかり下る。ごうごうと音を立て丶流れている川の、こういう所をアイヌの言葉でブイラという。そのブイラを一日中下って日暮に大木の下に野宿する。

夜中から猛烈な雨、盆を傾けたようなといった降り方で、その上急に気温が下って来て吹く風も冷たく、手甲も着物も雨でずぶ濡れになったけれども、たき火をしようにも木が濡れていて火が点かない。仕方なくあたりにある蕗の葉の大きいのを被って雨をしのぎ、それからは立ったままで夜明けを待った。

明るくなってみると、近くの高い山々の嶺々には真白に雪がか丶り、それによっても寒さの厳しいことを知らされる。

朝の食事は昨日獲ったかわうその肉、それも火が無いので生のま丶で詰め込み、余りの肉も昼の食糧に持って出発する。

八月六日

今日も急流を下る。昨日からの疲れに、足場の悪い道の連続で心身共に消耗し、だんだんと不安がつのって来る。たびたび磁石をとり出して調べてみるが、とにかく北に大きな高い山があって、その麓を通過しているわけで、それ等が何という山なのかアイヌ立ちもよく判別出来ないらしい。(ニセコの山々であろう――訳注)羊蹄山からはもう大分遠くなっていることだけは確かである。

日暮れ近くなって西の方から流れて来る少し大きな川に出合う。アイヌ達は「これは確かにマッカリベツ(真狩川)だ」と私にいう。昆布というところは昔からアイヌが丸木舟を作る場所になっていて、舟が出来上がるとその舟で川を下って海岸の磯谷に出るので、アイヌなら誰でもよく知っているところなのであった、私もそれで一安心と、今夜は近くの川岸で野宿と決めた。

考えるとこ丶二、三日は大変に危険で辛い行程だったけれども、土地に馴れたアイヌたちでさえが不安になるほどの川筋を、ソウツケからこ丶まで下って来たわけである。今まで和人が一度も足を踏み入れたことのないところを、今私が踏破したと思うと愉快この上もない気持ちであった。

八月七日

急流を下り、予定通り昆布川の合流する地点、昆布に出た。その間流れはや丶緩かになって、ブイラは五箇所位であった。よるシュンユシ(柳の多い所)に野宿。

八月八日

川を下って目名まで、この春不本意ながらも引返した地点である。尻別川岸の両側で仕事をしていた樵夫=きこり=たちが私たちを見て驚いた様子だったが、私もまた彼等に出逢って何だか急に生き返ったような気持がした。

夕方、川の渡し場まで来ると、渡し守が私を覚えていて「よくぞ御無事で……」と喜んでくれて手作りの濁酒を振まってくれた。それで此方山中で獲った鹿の皮と肉を持参していたので肉を提供する事にした。

そんなところへ丁度岩内からの帰途という常見栄太郎氏と一緒になる。

八月九日

寿都に着く、早速長谷川儀三郎、岡田錠次郎の両氏を訪問する。アイヌを非常に親切に、大切にされる方々なので、先日来アイヌ達から頼まれた件について善処方をお願いする為である

磯谷地区は今度私が踏査した尻別川下流の地であるが、従来この川でやなを張って、網で鮭を捕る事を禁じられていた。それがこの頃では禁を犯して大量の鮭を河口で獲ってしまう為、その上流を漁場にしている岩内、虻田、有珠の部落で鮭が獲れなくて困っているという。今度雇い入れ、行を共にしたアイヌ四人全部がこの川の上流を漁場にしているというので、何とかしてほしいとこの旅行中何度も私に訴えていたのである。それで私も困った事だと思うので、両氏によく事情を説明したところ、早速承諾されて、今後はそういうことのないように取締まりを厳しくする事を約束されたのであった。

そこで私はアイヌ達にその旨を伝え、またこの度の踏査には大変に協力して呉れたので、その手当てとして米、酒、漆器類、和服などをそれぞれに分けてやってその労をねぎらった。アイヌたちは喜んで、私に何度も礼を述べて山の方に帰って行ったのである。