岡崎文吉に学べ! 環境保全型河川改修
城座研一(オビラメの会会員、北海道立古平高校教員)
2001, 2017/07/26
岡崎文吉(右の肖像写真)は明治5年、旧岡山藩士族の長男として生まれ、明治20年16歳の時札幌農学校工学科(現北大工学部)第一期生として入学している。彼は在学中授業料免除はもとより、生活費を支給される給費生で、明治24年20歳で卒業すると同時に研究生となり、明治26年22歳のとき助教授に任命されるという大変な俊才であった。彼は助教授在任のまま「北海道庁技手」となり、25歳の時「北海道庁技師」として「灌漑、水理工学」の技術を実地に指導、実践していくことになった。彼は札幌-茨戸、茨戸-銭函間の排水運河、初代豊平橋、豊平川水力発電所の設計などを行っているが、彼の生涯を決定づけたのは明治31年におきた石狩川の大洪水である。彼はこの後、北海道庁石狩川治水事務所長(写真は当時の肖像)として、約12年の実地調査、海外の治水事情の研究の後に「石狩川治水計画調査報文」を明治42年、北海道庁長官に提出している。この「石狩川治水計画調査報文」にある治水計画の特色は、蛇行した石狩川の現状をできる限り維持し、洪水時にはあらかじめ開削した放水路に溢れた水を流し、洪水を防止するというものであった。
現在、治水対策の要諦としてショートカット方式が最善とされ、しかも石狩川をはじめとして日本の河川のほとんどはその方式によって改修されてきた。「石狩川治水の祖」と聞けばいかにもそのマスタープランを作った人物のように思えるが、大変意外なことである。いったい岡崎の治水理論はなぜ貫徹されなかったのであろうか?
岡崎は大正4年、44歳の時「治水」という彼の治水理論を集大成した書物を出している。漢文調の文章でありながら、その内容は現代の我々にとっても平易であり、わかりやすいものである。一部その文章を現代語に直し、列記してみたい。
「本来自然に出来上がった河川の流路のほとんどは理想的な状態で形成されているので、可能な限りその状態を維持し、たまたま存在する治水上不都合な箇所だけを、自然の実例に鑑みて改修することが大切である。これを私は自然主義と言っている」
岡崎は、かつて彼が開鑿した水路(もちろん直線である)ですら、水は決してまっすぐ流れず、必ず蛇行する傾向があることを発見した。つまり流路の地形や川底の土質などによって、水は最小の抵抗となるところを流れ、そのため必ず蛇行し、流路をしばしば変更するのである。しかし荒廃河川を除くと、河川はそうたびたび氾濫するものではない。河道がおおむねもっとも流水が通過しやすいところに自然に出来るからである。流水が河岸を侵食し、崩落させるのはごく一部分にすぎないと岡崎は主張している。
「治水を考える上で、森林は重要な役目を果たしている。森林は河川の現状を維持し、それが荒れるのを未然にふせいでくれるのだ。水源にあたる上流部の森は、雨が一度に流れ出すのを防ぎ、ゆっくりとしみ出させる。つまりこの森は水源涵養を果たす天然の調節者である。よって保安林として乱伐をつつしみ、その十分な維持、保全に努めなくてはならない。また、河畔林は川岸が削られるのを防ぎ、洪水時には抵抗となって破壊力を弱める作用を為す。つまりこの森は岸を守る天然の保護者である。この森も充分に守り、育てなくてはならない。みだりに開墾したり、伐採したりするような不法行為は絶対に禁止すべきである。」
最近までの治水方法として、洪水時の通水を良くするためと称し、堤防内には河畔林が生えると皆伐してきたことを考えると、あまりの違いに驚くばかりである。また川と森を一体のものとして考える自然観は、単に川は水の流れる通路にすぎないと考えてきた最近までの治水の観念とはまったく違うものである。
「近代の水理学は自然を教師とすることを忘れ、天然の河川を可能な限り真っ直ぐな流れにすることばかり考えている。すなわちあたかも川を人工の運河の如くつくりかえる事が治水の根本であると単純に思いこみ、かえって治水に悪い結果をもたらしてしまった。このような弊害を私は欧米の河川で数多く見てきた。本来川には人間の手を加えるべきではなく、自然の法則に反するショートカット方式は金と労力の無駄でしかない。」
岡崎は明治35年、31歳の時一年間にわたってアメリカ、ヨーロッパの河川の治水事情をつぶさに見てきている。この時、西欧の水理学界には河川を直流させることが治水の要諦であると主張する学派(極端主義)と、河川の現状を維持し、自然の法則を助勢することが治水の要諦であると主張する学派(自然主義)があり、岡崎はフランスのローヌ川がいったん極端主義によって改修された(直線化)にもかかわらず、治水の効果があがらず、多額の費用を投じて施行した護岸を撤去し、再び自然法則に則った形で再改修された事実から、極端主義をしりぞけたのである。彼は欧米の治水失敗の徹を踏んではならないと考えていた。
「その昔ガリレオは天文学の複雑さも、川を流れる水の複雑さにはとうてい及ばないと嘆いたという。それほど複雑な川の水を処理しなければならないのが治水事業なのだ。そのためには机上の理論よりも実地の経験がものを言うはずだ。それなのに、近代の水理学は姑息な計算に走りすぎる。河川の原始の姿を完全なまでに改造しようと企て、かえって河川の平衡を壊したあげく、治水に失敗している。こんな愚策を取ることなく、可能な限り河川の現状を維持し、自然を模範としてその摂理をまず第一に尊重しなくてはならない。それが本来の川と人とのつきあい方なのだ。」
この「治水」に書かれた理論と哲学に基づいて、「石狩川治水計画調査報文」にある治水計画は実行に移されるはずであった。「たまたま存在する治水上不都合な箇所だけを、自然の実例に鑑みて改修する」ため、当時としては画期的な素材であるコンクリートのブロックを鉄線に通し、決壊しやすい箇所に敷設するいわゆる「岡崎式単床護岸(コンクリートマットレス)」が採用された。また放水路の設計図面(右)もできあがり、あとは工事を始めるばかりであった。
ところが、石狩川治水事業が岡崎案に基づきいよいよ本格的に始まろうとしていた大正7年、彼はにわかに「内務技師」として東京への転勤を命ぜられるのである。そして岡崎案はキャンセルされ、結局はショートカット方式が採用されてしまい、石狩川はその流程を100キロあまりも縮められてしまったのである。
いったいなぜこのようなことになってしまったのだろうか?一説によれば、開拓使以来、薩摩、土佐出身の藩閥政治家の牙城であり、独立性の強かった北海道庁もこのころから内務省出身官僚による統制が強まってきたせいであると言われている。時の内務省技監は沖野忠雄。彼は内地の信濃川、淀川をショートカット方式で改修してきた実績があり、岡崎案を合理的でないとしてつぶしてしまったのである。
私は、この出来事が北海道はもちろん、この後の日本の河川の運命を決める分岐点であったと思っている。もし岡崎案が石狩川の治水において貫徹されていたら、その後の日本の川は原始の面影を充分残した、自然度の高い環境が保全されていたかもしれない。
さて、そのショートカット方式によって洪水を防止できなかったことは、石狩川において昭和50年と56年におこった大洪水をみても明らかである。森林の伐採による保水力の低下も相まって、下流域において水かさが一気に増し、むしろ昔に比べて水害の被害が増してしまったことが指摘されている。
ここにおいて、政府も従来型の河川改修をこれ以上続けることは出来ないと認識し、葬り去ってしまった岡崎の治水理論を見直さざるをえなくなったのである。
写真は「岡崎式単床護岸(コンクリートマットレス)」
結局我々は、岡崎が危惧していたとおり「河川の原始の姿を完全なまでに改造しようと企て、かえって河川の平衡を壊したあげく、治水に失敗」してしまい、今またそれを再び改修して「可能な限り河川の現状を維持し、自然を模範としてその摂理をまず第一に尊重」しなくてはならなくなってしまった。まさに「金と労力の無駄」である。
私たちは治水と河川環境の保全が両立出来ない面があると考えてはいないだろうか。岡崎の理論に従えば両立は可能であり、しかもそれこそ正しい治水の要諦なのだ(そうでなければ開発局が標津川、釧路川の蛇行復元に取り組むわけがない)。私は「自然を模範としてその摂理をまず第一に尊重しなくてはならない。それが本来の川と人とのつきあい方なのだ。」という彼の思想を多くの人に知ってもらいたい。そして今後の河川のあり方には、かれの哲学が生かされるようつとめなくてはならないと思う。
(C)Ken-ichi Shiroza 2001