江戸謙顕さん「尻別川イトウ個体群復元計画」

2001、2022/01/05

江戸謙顕氏みなさん、こんにちは。ぼくは主に石狩川水系空知川上流部のイトウ個体群の生態について研究していますが、きょうはその成果を踏まえつつ、ここ尻別川でイトウ保護をどうやって進めていくか、お話ししたいと思います。

イトウ減少の原因は?

イトウは環境省レッドリストで「絶滅危惧1B(EN)」、北海道レッドリストでは「絶滅危機」というランク付けで、いわゆる希少種とされる生き物です。一口に希少種といっても、もともと数が少ない動物、というのと、もともと多かったのが最近急に減ってしまった、というのと、2通りある。特に後者は、原因が人為的なことが多いので、人間活動との関わりをよく見る必要があるんですが、北海道のイトウの場合、明らかにこの後者なんです。ただ、人為的な原因といっても、影響の現れ方は、種によって特異的です。つまり、たとえば河川改修をすると、イトウなんかは減りますが、フクドジョウなどはかえって増えたりする。ではイトウという種において、とりわけ特徴的な生態は何か、といえば、ひとつは、上流域の産卵場所から下流域の親魚の生息場所まで、極めて広大な生息場所を必要とするということ、ふたつめは、20年ほども生きてその間に繰り返し繁殖行動をとる、高齢多数回繁殖型である、ということです。この特徴があるために、人為的影響というものが特異的に出てくるのです。

こんなイトウをどうやって守るか、と考える場合、まずその減少要因を探る必要 があります。国際自然保護連合は、野生生物の激減を引き起こす主な要因として、A生息地破壊、B環境汚染、C移入種、D狩猟、の4つを挙げていますが、イトウの場合は特にAが大きいのです。ほかの要因がないわけではありませんが、ともかくイトウ保護のポイントは第1に生息地の保護、ということです。それを踏まえてアウトラインを描くと、こんな感じになります(図1)。

図1

「環境の定量化」で生息適地を解析

じゃあ、イトウのすみやすい環境とは、いったいどんななのか。僕たちはイトウがすんでいる川を実際に調べて「定量化」することにしました。つまりイトウが生きていける自然環境の姿というものを、数値で表してやろうということです。このためには「マルチスケール論」というのを使います。まず河川の見方をこんなふうにスケール化します(表1)。これからいろんなデータを比較していきますが、スケールをごっちゃにしてはダメ。自分が今問題にしているのはどのスケールのことなのか、意識しながら進めるのがポイントです。

表1

広角的 流域スケール 尻別川流域全体を視野に入れる
  区域スケール 一本の支流を視野に入れる
  河道区間スケール 淵・平瀬・瀬の組み合わせの連続を視野に入れる
  流路単位スケール 淵・平瀬・瀬のワンセットを視野に入れる
接写的 微棲息場所スケール 淵・平瀬・瀬をそれぞれ別個に視野に入れる

さて、まず産卵環境の定量化からいきましょう。地理情報システム(GIS)を利用して得られる河川(区域)スケールの情報からでも、この川でイトウが産卵しているかしていないか、ある程度判断がつきます。どうやら河川勾配や集水域面積といったファクターが効いているようです。

次に河道区間スケールで調べると、河川内の約2~3キロ の特定の区間に集中して産卵していることが分かってきました。さらにスケールを下げて、流路単位スケールではどうでしょう。流路単位は大きく淵、早瀬、平瀬と分けられますが、イトウが産卵するのは決まって平瀬です。では平瀬はどこにできるか。これも決まっていて、基本的には淵の下流部に出来るんです。では淵はどんなところにできるでしょう?

図2淵のタイプは6種類に分けられますが、うち4つまでは障害物によって形成されるものです。たとえば、流れの中に木が倒れると、せき止められた下流に必ず淵が出来る。私たちの観察では、倒木ではなく、河畔林の生木自体が淵の形成、ひいては平瀬の形成に寄与していることも分かりました(図2)。

河畔林がイトウの産卵環境の造成に寄与しているという証明のひとつです。もっと細かいスケールでも調べてみました。微生息場所スケールで、流れの中に50 センチ四方のコードラート(方形区)を想定して、それぞれのセル(升目)ごとにデータを集めて比べるんです。この結果、イトウは「流速50~80センチ、水深20センチで、川底の小石の直径が3センチ前後」という場所をピンポイントで選んで産卵に利用していることが分かりました。

産卵床は離れた3箇所に一個ずつ

こうして、各スケールでの産卵環境の定量化は出来ました。でもこれだけではイトウ保護につなげるにはまだ足りない。行動生態学的なアプローチも必要なんです。そこで、何匹もの親魚を個体識別しながら、繁殖期に追跡調査を試みました。その結果、遡上してきた親魚は産卵場所を探して産卵河川内を何キロも泳ぎ回ること、メスは平均3個の産卵床を作りますけれど、その間隔は平均218メートルに及ぶことなんかが分かってきました。

イトウのメスは、最初に見つけた平瀬がたとえ面積的に十分広かったとしても、そこに全ての卵を産んでしまう、ということはほとんどしません。何回か産卵したら、また別の平瀬を探しに移動することがほとんどです。ということは、産卵環境の保全を考えるとき、ただ平瀬があればいい、というわけではない。産卵に適した平瀬が、ある程度の数だけ分散して分布している必要があるということです (図3)。

図3

もうひとつ、個体識別しながらの調査で分かった重要な発見は、イトウの雌には、支流ごとに強い母川回帰性があるようだ、ということです。したがって、各支流ごとに環境を保全する必要があるわけです。

稚魚期に必要な氾濫原

次に、稚魚の生育環境についてみてみます。サケのメスは一生に一度、3000粒の卵を産む。うち2匹が成魚になれれば世代交代は成功です。イトウは1度に3000粒、仮に一生のうちに3シーズン繁殖に参加するとすると、9000粒のうち2匹が親魚になれればOK、という計算です。イトウは成長すれば最強の魚ですが、反対に稚魚期は非常に脆弱なのではないか、と想像できます。

産卵場所の例と同じように微生息場所スケールで、今度は稚魚の生息場所を定量化してみました。稚魚は夏になると河床の砂利の中から浮上してきて泳ぎ始めるのですが、浮上してから1月ほどの間は、主に産卵河川(川幅数メートル~十数メートルの支流)内に留まります。産卵河川内では、主に川岸から10センチ以内で、水深5センチ以下、流速はほとんどゼロ、カバー(隠れ場所)もないような場所を選択して定位していました。

ここまでは、他のサケ科の稚魚と同様の生態を示しています。ところが、秋になると、それまで産卵河川内に留まっていた稚魚のほとんどが、本流(川幅約30m)に流下分散してしまうことが分かったのです。じゃあ後は、稚魚はそのまま本流で成長するのかというと、これがまたそうではない。本流に流下した稚魚は10月位までに、本流に直接注いでいる小水路(川幅2メートル前後)に入り込むことが分かったのです(図4)。

図4

具体的には、伏流水がわき出てできた水路や、湧水によ る水路、本流脇の湾状のタマリ、農業用水路などで、流速が極めて遅く、水深も浅く、全体的にカバー(隠れ場所)が非常に多い、一見湿原のような環境です。こういう環境は、氾濫原と呼ばれる場所に多く見られます。ちょうど水界と陸界の境目、「エコトーン」と呼ばれたりする部分です。イトウは稚魚期に、こうした氾濫原の小水路という特殊な環境を利用する、独特の生活史をもっていることが分かったのです。

つまり、こうした環境の量が、イトウの個体数を規定する極めて重要な要因であると考えられるんですが、こういう場所は実は河川改修などでまっさきに破壊されてしまう部分なのです。こういう環境を好む、たとえばイタセンパラやヤチウグイといった種も、やはりいま激減しています。イトウを保全するためには、こうした氾濫原の保全を考えていかなければならないのです。

人工復元には覚悟が必要だ

さて、尻別川でもこれまで、「オビラメの会」のみなさんによって産卵床探し(発見数ゼロ)や稚魚探し(99年に2歳魚1個体、2000年に3歳魚2個体確認など)が行われてきたわけですが、その結果を見る限り、生態学的には尻別川イトウ個体群はすでに崩壊していると言わざるを得ません。ということは、一般的な保全活動ではもはや回復は見込めないわけで、ちょうど佐渡のトキみたいに、最後の手段として人工復元を試みるしかない、そういう段階なんだと思います。これに取り組むには相当な覚悟が必要なことは、いうまでもありません。
 少し具体的に提言してみます。まず、尻別産種苗の確保は大前提です。ついで、これまで述べた定量化データなどを元に、繁殖可能な環境を尻別川水系に復元する必要があります。空知川の例から見て、1支流あたり毎年4匹のメスが利用できればよいとして、メタ個体群を維持するのに、そんな支流が少なくともは8本は欲しいところです。

選んだ支流では産卵環境を保全、場合によっては人為的に造成することも考えなくてはいけません。同時に稚魚の生息場所、また親魚の生息場所も必要です。それは地形的な問題だけでなく、イトウが生きていくのに十分な食物があるかどうか、といった生物学的要因も考慮する必要があります。そして最後に、それらの環境をイトウたちが自由に回遊できるような環境の整備も大事です。

手順としては、着手しやすいところから最小の復元範囲を決め、そこをモデルに徐々に範囲を広げて、最終的には尻別川全体をイトウのすみやすい環境にもっていく、というやり方しかないと思います。どうもありがとうございました。


2001年6月16日午後、京極町公民館での講演より。(図版提供・江戸謙顕氏、まとめ・平田剛士)