伝説のイトウ釣り師が語る「尻別川の過去、現在そして未来」

2001、2022/01/07

スポーツフィッシングの愛好者なら、きっと耳にしたことがあるはずだ。イトウ――サケ科イトウ属、日本では北海道にだけ生息する国内最大級の淡水魚である。ルアーフィッシングやフライフィッシングに手を染めたら、だれもがいつかは出合いたいと願う相手。だが、腕に覚えのあるベテランが何年も追いかけて一匹も釣れないこともザラ、といわれる「幻の魚」だ。そんなイトウをたった1人で3000匹も釣り上げた男がいる、と書いても、にわかには信じてもらえないかもしれない。イトウに人生の大半を捧げてきた超人的な釣り師の、夢のような物語──

平田剛士(フリーランス記者)


エイの形にたとえられる大島・北海道の、ちょうど尾のつけねにあたる部分。羊蹄山(ようていざん)コニーデの北半分をきれいに迂回し、スキー場で有名なニセコ地方を貫いて日本海に注ぐ川が、この物語の舞台だ。名を尻別川(しりべつがわ)という。

「伝説のイトウ士」は、尻別川越しに羊蹄山を望む倶知安(くっちゃん)町に住んでいる。草島清作さん。この7月、69歳を迎える。

「野武士の生き方にあこがれてね。一般的な『釣り師』でなく、『イトウ士』と称してきた。だが同じサムライでも、刀を2本下げてふんぞり返ってるようなのは、気に入らない」

そんなふうに話す草島さんのライバルは、一貫して尻別川のイトウである。14歳のころ、初めてイトウを竿に掛けて以来、イトウのことが頭から離れた日はない。

尻別川のほとりで

 生まれたのも尻別川のほとりだった。東倶知安村、現在の京極町(きょうごくちょう)である。昭和初期の当時は、小樽(おたる)方面からの鉄道がようやく内陸部のこの地方にも延びかけてきたころで、地元で買える魚といえば海産物の塩蔵品か乾物しかなかった。

「だから尻別川の魚は村人の重要なタンパク源だった。ウグイは味噌(みそ)汁やソバのダシ、ヤマベは塩焼きにしておかずとして食べる。もちろんイトウも、食べるために大人たちが釣っていた」

イトウは悪食で、ヘビやネズミも食べてしまうことから、人々は高級魚とは見なかった。だが反面、身がピンク色をして美しいので、お祝い事や、大きな集まりの場には、決まってそのお造りが供されたという。タイやマグロの代用品というわけだ。

清作少年が釣りに熱中しはじめるのは10代のはじめころだ。延べ竿に人造テグスを結び、ミミズを餌にしてウグイを釣るのである。学校が休みの日は必ず尻別川に釣りに出かけた。そんなある日。

「針に掛けたウグイに、イトウが食いついたんだ。いきなりゴーンときて、もちろんウグイもろともいっぺんに持っていかれた。イトウの潜んでいる場所では、ふつうウグイのような小魚は見当たらない。みんな食べられるか、さもなければ逃げてしまう。逆にいうと、ウグイがよく釣れるような場所にはイトウはいないもんなんだ。ところがその日は違った。これがイトウなのかって、そりゃあショックを受けた」

「本物のイトウ」

少年はいっぺんにイトウにとりつかれる。だが、このころ村には名を知られるイトウ釣り師が何人もいたのだが、彼らに直接、教えを乞うようなことはしなかった。安易に人に頼らない、そんなプライドがすでに芽生えていた。「野武士」の面目躍如である。

巨大なイトウを釣り上げるための特殊なタックル(釣り道具)は、自分で工夫した。釣り竿は、ウグイやヤマベ用の延べ竿をそのまま使うのでは弱すぎるので、穂先を大幅に切り詰めて磯(いそ)竿のように硬調にした。自転車のスポークを丸く曲げて竿に縛り付け、ラインを通すガイドにした。リールは、適当な太さのホウの丸木を円盤状に切って利用する。糸崩れを防ぐため、缶詰の空き缶の底の部分を皿の形に切り取って円盤の両面に張り付け、釘を打ってハンドル代わりにした。さらに円盤の中心に五寸釘を打ち込んで竿の手元に固定する。ラインを巻き、スムーズに回転するように調節して完成である。

「当時の尻別川では、イトウは決して幻なんかじゃなかった。たくさんいたんだ。そもそも3尺(約90センチ)を越えなければイトウとは呼ばなかった。それ以下はピンコ(雑魚)扱いなのさ。この手製のタックルで、ピンコはいくつか釣れたが、初めて90センチを越える本物のイトウを釣ったのは、よく覚えてるよ、中学3年の6月15日だ」

その日を挟む3日間が北海道神宮のお祭りで、学校は休みだった。清作少年はもちろん毎朝、川に向かった。

「15日の昼すぎ、3時頃だと思うが、京極の堰堤下で、瀬(比較的浅くて流れが速く、白波が立つような場所)についていたイトウを掛けた。釣り上げるのに、30分くらいかかったかな」

草島さんの「イトウ人生」がこうして幕を開けた。

「草島之型」ヘラ

尻別川のイトウ釣り師の間には、「ヘラ」と呼ばれる独特の形をしたルアーが伝えられている。「スプーン」と「スピナー」(ともにルアーのタイプ名)を合体させたような風変わりなルアーである。

詳細ははっきりしないものの、明治から大正期にかけて、尻別川に鱒釣りにきたアメリカ人かヨーロッパ人がルアーを振っているのを地元の釣り人が見て、その仕掛けを真似て手作りした、というのが「ヘラ」誕生の経緯らしい。

ユニークなのは、昭和時代以降、高性能で、またアクセサリーのように美しいルアーの数々が本場から輸入されるようになってからも、尻別川のイトウ釣り師に限っては、見た目は決して優雅とは呼べない手製の「ヘラ」をずっと使い続けてきた、ということだ。

大物イトウを狙うのに、それほど絶対的な力を発揮したのが「ヘラ」だったのである。

それまでドジョウを餌にしてイトウを狙っていた草島さんが、「ヘラ」の釣りにのめり込むのは20歳ごろのこと。

「もともと研究が好きな性格だったんだ。ヘラで大事なのはブレードの形と、もうひとつ、こっちがより重要なんだが、ブレードの中に仕込むナマリの配分バランスなんだ」

「ヘラ」は大きく分けて3つの部品から成り立っている。カレーライスを食べるスプーンから柄を切り取ったような形の「ブレード」。針金に赤い糸を巻いた長さ約10センチの「軸」。そしてイカリの形をした「トリプルフック」だ。

軸の一端にトリプルフックを取り付け、もう一方の端には、ライン(道糸)を結びつけるヨリ戻し(スゥイベル)がつく。軸のヨリ戻しに近い側には、小さな輪が作ってあって、ブレードの縁に開けた小穴と連結させれば完成だ。この「ヘラ」をラインに結んで水中を引くと、ブレードが水の抵抗を受けて、プロペラのようにクルクル回る。イトウの目の前を通過したとたん、ガツンと食らいつく、というわけだ。

ブレードは、型紙に合わせて切り抜いた真鍮(しんちゅう)や銅の薄板を、金槌で叩いてサジ状に形成し、くぼんだ側に溶かした鉛を流し込んで重みをつけたものだ。材料の金属板は当時は手に入りにくかった。そこで、荒物屋からヤカンや噴霧器、カンテラといった製品を買ってきては、金バサミで切り刻んで流用したのだという。

草島さんをはじめ、尻別川のイトウ釣り師たちが競い合うように改良を重ねたのは、ブレードの部分だった。

草島さんが工夫を凝らしたオリジナルブレードは、小判のような形をして、両面ともにぴかぴかに輝いているのが特徴である。

「2枚のブレードで鉛を挟み込むサンドイッチ構造にして、初めて思ったようなものが出来たんだ。でもそれだけじゃない。どの部分にどれだけ鉛を流し込むか、そこまで微妙に調節してあるのさ」

草島さんのブレードは釣り人の間で評判を呼び、後に「草島之型」と呼ばれるようになる。

型紙は同じでも、全て手作りのブレードには1点ずつ違った個性がある。草島さんは道具箱の中から年季の入った一枚のブレードを手渡してくれた。表面はデコボコして、よく見ると針で突いたような細かな傷も付いている。

「そいつが一番の宝物だ。70本以上のイトウをそいつ1枚で釣ってるからな」

針で突いたような傷穴は、巨大なイトウのかみ跡だったのだろうか。

152センチのレコード

1931年から45年にかけてのアジア太平洋戦争中も尻別川に通い続けたという草島さんだが、敗戦後、家庭の事情で一時、上京したことがある。

「親戚の魚屋で働いたんだが、東京に住んでいても、ちっとも面白くないんだよ。どうしても尻別川のイトウのことが忘れられないんだ」

5年ほどたった54年、ついに我慢できずに生まれ故郷に帰ってきた。

「さて何の仕事をしようか、と考えた。時間が自由にならないサラリーマンはよくない、と。それで土方(土木作業員)を選んだんだ。それからは夏も冬も関係なく一年中、仕事が休みの日は必ず川に出るようになった」

イトウ釣りを極めるための生活が再スタートする。

まだ20代だったが、尻別川の釣り師たちの間では、すでに「名人」と呼ばれ、尊敬を集めるようになっていた。年長の釣り師から教えを乞われることもしばしばだったという。

「そんなときはウグイの瀬釣りを練習すればいい、と教えた。イトウは当たりがあっても、合わせが早すぎると針に掛からない。逆に遅すぎると針が呑み込まれてしまって、あの鋭い歯でラインを切られる。上手な合わせのタイミングを会得するにはウグイを練習台にするのが一番なのさ」

草島さんは年間100匹から150匹のイトウを釣り上げるようになっていた。絶頂期の到来である。

「おれの釣りに出会い頭はない。淵(深み)や瀬に潜んでいる魚に狙いをつけたら、テクニックを駆使して誘い出して釣るんだ。それに、今と比べものにならないくらい、魚影も濃かった。あるポイントの魚を釣り上げても、4日もたてば、またすぐに別の魚が入ってきたからね。予備軍の魚がたくさんいたんだ」

1957年、1メートル53センチという超大物を仕留める。草島さんのレコードだ。

「水中に電柱が1本立つんじゃないかというくらいの深ーい淵さ。大きな倒木が隠れてて。粘土の地盤で、それが水流にえぐられて穴になって、そういうところに大きなのがいる。だいたい、イトウは夫婦がペアになって流れの中にいるもんだが、実はその時も、もう1匹、1メーター60くらいのがいた。3回掛けて、3回ともバラした(釣り落とした)がね。おれが上げられなかった魚はあいつだけだよ」

こんな調子で草島さんが釣りまくるので、ある日、京極の釣り仲間たちが「このままではこの辺りのイトウが減ってしまう。もっと下流で釣ってくれないか」と頼みにきたそうだ。

川幅が広く、水量も多く、難しさもあるが、上流域の釣りとはまた違った趣のある「下流域のイトウ釣り」に草島さんも魅力を感じていた。そこで、ホームグラウンドを下流の蘭越(らんこし)に移すことにした。1975年ごろのことだ。

世間は高度経済成長期に突入していた。

破壊される尻別川

「尻別川には200瀬200淵あるといわれたほどで、当時はイトウのポイントはそれこそ無数にあった。川の両岸は分厚く原生林に覆われていて、道路から30分も踏み跡を歩いて、やっと川辺にたどりつくんだ。次のポイントに移動するときは、またいったん道路まで戻らねばならなかった。川は激しく蛇行して深みが多くて、水の中を歩くわけにいかない。おまけに原生林が水際ギリギリまで密生していて、川岸に沿って歩くことさえできなかった」

原生林に阻まれて、釣り師がどうしても入れず、いわば天然の禁漁区として手つかずのままだった場所もたくさんあった。そうした場所で次々に巨大なイトウが育まれていたに違いない、と草島さんはいう。

「でもちょうど昭和40年ごろだな。ブルトーザーが川に入っているのを目撃して、これはいかん、と直感した」

建設省が尻別川を一級河川に「昇格」させたのがこの1965年だ。政府が直接管理します、という意味だが、現実には、治水治山対策事業の名のもと、コンクリート護岸・蛇行の直線化・砂防ダム建設・川砂利のしゅんせつといった、環境破壊的な土木系公共事業の開始宣言にほかならなかった。

加えてこのころ、河畔林の伐採と川岸ぎりぎりまでの農地化が進む。川の水量は目に見えて減り、かつてあれほど深かった淵でさえ、遠目にも底の見通せるような浅場になってしまった。水そのものの汚れも目立つようになってきた。生活排水が流れ込み、工事のたびに汚濁水が流れるのでは無理もない。

草島さんはこのころから、1メートルに満たない魚は釣ってもすぐリリースする決まりを自分に課し始めていたが、75年ごろになると、イトウは名人の竿にもなかなかヒットしなくなる。

「狙ったポイントにイトウがいない、という日がだんだん多くなった。それに、1匹釣ってから次の魚が入るまでの間隔が、それまでなら4日だったのが10日経っても入らない。川の自然環境がどんどん破壊されて、予備軍の育つ場所もなくなってきてしまったんだ」

つい10年~20年前まで、あんなに魚影の濃かった尻別川のイトウが、いつしか「幻の魚」と呼ばれ始め始めるようになっていた。

1985年3月に120センチのイトウを釣り上げたのを最後に、草島さんはイトウ釣りから身を引いてしまった。

だが尻別川を見限ったのではない。むしろ逆で、草島さんは、尻別川のイトウをこれ以上減らしてはならない、と世間に向けて警鐘を鳴らし始める。

オビラメの会

2年前の春、草島さんは仲間の釣り師たちと「尻別川の未来を考える・オビラメの会」を旗揚げした。

「オビラメ」とは、イトウのことを指す先住アイヌ民族の言葉だ。

どの魚類図鑑を見ても、北海道のイトウはただ1種として記載されているけれど、アイヌは古来、イトウのことを「オビラメ」と「チライ」の2つの名で呼び分けてきた。地方によって姿かたちに微妙な差があるといい、先住民族はそれを見分けたのである。草島さんによると、尻別川のイトウは「オビラメ」だという。

いうなれば「尻別イトウ」を意味する「オビラメ」を冠したこのグループの目的は、ずばり尻別川の自然環境の回復と、ここに生息するイトウの保護だ。

最近の生態研究によると、イトウにはサケと同じような母川(ぼせん)回帰性、つまり自分の生まれた場所に戻って繁殖行動をする習性があることが分かってきた。イトウは時に海にまで下ることもあるが、そんな場合でも河口から遠く離れた別の川にさかのぼってそこで暮らし始める、というようなことは少ないらしい。自分の生まれた川で育ち、同じ川でパートナーを見つけて子孫を残す。そんな基本サイクルを繰り返しながら世代交代を続けてきたのだ。だから同じイトウに見えても、遺伝子レベルで見れば、川ごとに確かに異なる「系群」があることになる。

イトウの保護を考えるとき、するとどうしても川そのもののことが大事になる。道東の釧路川、道央の空知(そらち)川、道北の猿払(さるふつ)川など、イトウの生息地は道内各地に残っているとはいえ、もしこのまま尻別川のイトウを絶滅させてしまったら、尻別イトウはもう永遠に戻らない。

最悪の事態を避けるために、「オビラメの会」は釣り人や研究者に協力を呼びかけて、尻別イトウの遺伝子確保作戦を展開中だ。

そのいっぽうで、尻別川の流域の自治体などに、環境保全の政策をとるよう求めている。ダムや堰堤にはきちんと機能する魚道を。イトウをはじめとする魚たちの繁殖場所の保護を。水利権を見直して川の生き物にいつも十分な水量を。釣り人たちのモラルの向上を。川に関する行政情報は市民にも公開せよ。……

「今の尻別川は川じゃない。ただの排水路だ。川はほんらい自浄能力を持つはずだが、河畔林をあんなに丸坊主にしたり、流れをすっかり直線化してしまっては……。尻別川を昭和40年ごろの姿に、もう一度戻したいんだ」

私は人生のほとんど全てを尻別川に教えられてきた、と草島さんは語る。

「イトウが希少になってきたから守る、というんではないんだ。これまで本当にたくさん釣ってきて、尻別川のイトウの素晴らしさを知り尽くしている自分だからこそ、その素晴らしさを世の中の人たちに伝えたいのさ」

今年1月、草島さんは脳梗塞と診断されて2週間の入院生活を送った。だがその力強い語り口から、病後という印象は全く感じられない。

「まあ生きているうちに、若い人たちにできるだけ自分の考えを残しておかないと」

草島さんは笑顔である。

彼はきっと、これからまたひとつ伝説を残そうとしているのだ。「イトウのすむ川の蘇生」という、だれも成し遂げたことのない偉業へのチャレンジである。

これまで生涯を捧げてきた、愛すべき魚たちのために──


豆知識 北海道のイトウ

イトウのことを最初に「幻の魚」として広く紹介したのは故・開高健と思われる(1968年に書かれたエッセイ、文春文庫『私の釣魚大全』収録)。当時は交通も未発達で、東京在住の開高にすれば生息河川(釧路川)までの物理的な遠さも手伝って「幻」と称した面もあっただろう。

だが現在はどうか。標津サーモン科学館の小宮山英重学芸員によると、今までにイトウがいたという情報のある水系は道内に約50あるが、95年現在、実際に生息している水系となると30以下ではないか、という(長田芳和ほか編『日本の希少淡水魚の現状と系統保存』緑書房、1997年)。環境破壊により、北海道のイトウは真に「幻」になりつつあるということだ。

そんなイトウのことを、環境庁レッドデータブック(91年)は危急種に、水産庁版野生生物基礎資料(94-96年)は希少種に指定している。だが具体的な保護対策はほとんどとられていない。絶滅の淵から救出するために何をすべきか、思案している時間は余り残っていない。(平田剛士)


北海道バイリンガルマガジン「XENEジーン」1998年6/7月号に収録。copyright 1998 Tsuyoshi Hirata