講演2「イトウ系統保存のこころみ」市村政樹さん/標津サーモン科学館学芸員
2009/9/12, 2021/12/30
イトウは絶滅してしまう?
イトウは釣り人の間では特別な魚です。ある時、職場に「1m20cmのイトウが釣り上げられた」と連絡が入りました。釣った本人のところへ行き、メジャーを当てたら、80cmしかありません。私に通報してくれた人は、又聞きしたのを知らせてくれたそうです。その相手も又聞きで、釣り人本人から間に5人を経て情報が運ばれてくる間に、40cmも大きくなっていたというわけ(笑)。
さて、そのイトウは産卵直後の雌でした。イトウが釣れなくなったといわれていた川だったので、産卵している個体が確認できてよかった、とその時は思ったのですが、その年、その川で稚魚は全く確認できず、その後10年以上、イトウの目撃情報は途絶えたままです。
こうして、根室地方でもイトウの生息河川は減る一方で、かつて十数本もあったのに、いまでは3河川でしかイトウの姿は確認されていません。標津サーモン科学館では1997年からビラを配付してイトウ目撃情報を募集していますが、「昔はいた」というのはあっても、根室地方ではこの2年間、新たな確認情報がありません。「たまに釣れるけど、小さいのはいない」というのも要注意。イトウは寿命が長いので、繁殖がうまくいっていない川でも老齢個体は釣れます。イトウがいると油断して、気がついたらいなくなっていた、というケースはありがちです。
このままいくと、イトウは絶滅してしまうでしょうか。そう聞かれたら、私は「種としての絶滅はない」と答えます。イトウの人工孵化技術は確立しています。エゾオオカミやシマフクロウなどと違って、道北や空知川など野生個体群が健全に維持されている川もあります。ただし、川ごとに絶滅していく可能性は高いと思っています。
8系統のイトウを系代飼育
川村さんのお話にもあったように、イトウは生息河川ごとや地域ごとに遺伝的な違いが明確です。私もひとつ例をあげると、雄の婚姻色の出方がハッキリ違います。道北地方では、繁殖期の雄は体を見事な赤に染めます。いっぽう、道東ではあれほど鮮やかな赤になること少ないようです。
余談ですが、魚の身を赤くするのは、アスタキサンチンという天然の赤い色素で、甲殻類、簡単に言うとエビやカニの仲間を食べるとこの色素が魚の体内に取り込まれます。養殖用のエサにもこの色素を添加したものがあり、科学館のイトウたちにも与えているのですが、飼育しているイトウが道東地方のイトウのためか、雄の婚姻色は多少赤くなる程度です。ただし、卵の色は確かに赤くなっています。
さて、科学館では現在、8水系のイトウをそれぞれ系代飼育しています。すでに野生イトウの見られなくなった川のイトウたちもいます。今はまだ絶滅していなくても、現在進行形で環境が悪化中で、いずれ絶滅の可能性が高いと考えられる川のイトウもいます。
8系統以外にも、イトウ絶滅の可能性が高い川は他にもあります。そんな川で固有の遺伝子を持つ子孫を何とか確保しようと思って、産卵床から受精卵を採取しようと試みることもあるのですが、ある河川ではせっかく親魚が産卵した卵が、砂礫が細かすぎて窒息状態になり、死卵ばかりというケースもありました。こうした産卵環境の悪化は、重大な絶滅要因のひとつです。
私はせめて、そんな「あぶない川」のイトウたちを、人工飼育下でもしかたないから、何とか後世に残していく役割を果たしていきたいと思っています。
放流は時期尚早
では、そうやって飼育下で保護した魚たちを、将来的にどうすればいいのでしょう。私は、いずれ元の川に返したいと思っています。ただし、それをするにはまだ時期尚早だ、とも思っています。
なぜなら、イトウが絶滅に瀕している川には、イトウを絶滅に追い込んでいる何らかの原因があるはずからです。それをきちんと突き止めて取り除いてやらない限り、いくら人工的に放流をしても、イトウは復活するはずがありません。
また、人工飼育魚の放流は、川にすむ他の在来種に影響を与えずにおきません。例えば、水槽育ちの放流魚が新たな病原体を自然河川にもたらしてしまうことだって考えられます。免疫のない在来種が死滅してしまうかも知れません。イトウがいなくなって長い期間が空いた後では、その間に生態系に変化が生じていると考えられます。そこへ急にイトウを離した場合、かえって生態系にダメージを与えてしまう可能性もあります。社会的にも、例えば漁業者のみなさんの理解や協力をちゃんと得てからでなければ、放流しても成果は上がらないでしょう。
オビラメの会のみなさんは、すでに尻別川で、地域の協力を得ながらイトウ再導入の実験をじょうずに進めてらっしゃる。ですから標津サーモン科学館でも、近くの絶滅河川で再導入を試みたい、という気持ちはあります。しかし現段階では、さっき言ったような理由で、実際に放流するのはまだ早いと思っています。